線 絵本版 本文

1

その人には、たくさんの呼び名がありました。
ある人からは、子と呼ばれました。 ある人からは、親と呼ばれました。 ある人からは、妻と呼ばれました。 ある人からは、支える人と呼ばれました。
そのどれも、本当でした。
2

朝、その人は湯をわかしました。
昼、その人は誰かの用事を思い出しました。
夜、その人は眠る前に、まだ終わっていないことを数えました。
そのたびに、いくつもの呼び名が、その人の肩に静かに重なりました。
3

子だから。
親だから。
近くにいるから。
私がやるしかないから。
その人は、そう言ってきました。
言葉は、はじめは小さな糸でした。
4

小さな糸は、少しずつ増えました。
心配の糸。 約束の糸。 遠慮の糸。 期待の糸。 言わなかった言葉の糸。
その糸は、ほどけないまま、その人のまわりに巻かれていきました。
5

その人は、誰かを嫌いになったわけではありません。
投げ出したいと思ったわけでもありません。
大切にしたいと思っていました。
粗末にしたくないと思っていました。
だから、引き受けました。
6

しかし、引き受けるたびに、その人の輪郭は薄くなりました。
誰かの不安が、自分の不安になりました。
誰かの人生が、自分の人生のようになりました。
愛することと、消えていくことの区別が、少しずつ見えにくくなりました。
7

ある日、その人は、水たまりの前で立ち止まりました。
水に映った顔は、知っている顔でした。 でも、少し遠くに見えました。
その人は、小さく思いました。 私は、どこにいるのだろう。
8

そのとき、風が吹きました。 水面が揺れました。 映っていた顔が、いくつにも分かれました。
子としての顔。 親としての顔。 妻としての顔。 支える人としての顔。
どれも、その人でした。 でも、どれも、その人の全部ではありませんでした。
9

水面の上に、細い線が見えました。
誰が引いたのかは、わかりません。 まっすぐでもありません。 強くもありません。
消えそうで、たしかにそこにある線でした。
10

その人は、線を見つめました。
線は、誰かを切るためにあるのではありませんでした。 誰かを遠ざけるためにあるのでもありませんでした。
線は、混ざったものを、混ざったまま見えるようにしていました。
11

これは、私の心配。 これは、あの人の心配。 これは、私が引き受けたこと。 これは、私だけでは決められないこと。
これは、愛。 これは、愛に似た役割。
12

分けたのに、切れてはいませんでした。
線の向こうにも、まだ大切な人がいました。 線のこちらにも、まだ大切にされるべき自分がいました。
つながりは、消えませんでした。 ただ、溶けなくなりました。
13

その人は、はじめて深く息をしました。
何かが解決したわけではありません。 明日も用事はありました。 心配も残っていました。
それでも、その人の足元に、立つ場所が戻ってきました。
14

その人は、線の向こうにいる人を見ました。
私はあの人ではありません。 でも、私の中に、あの人がいました。 あの人の中にも、私がいました。
だから、線が必要でした。 切るためではなく、どちらも粗末にしないために。
15

愛も、そこにありました。
ただ、前と少し違いました。
愛は、何でも引き受ける形だけではありませんでした。 近づく形もありました。 離れる形もありました。 渡す形もありました。 渡さない形もありました。
16

愛は、消えたのではありません。 冷たくなったのでもありません。
愛は、役割に溶けるのをやめました。 犠牲という服を脱ぎました。 我慢という名前を返しました。
そして、静かに、自分の姿を取り戻しました。
17

その人は、線をなぞりました。
なぞった線は、水面から、手のひらへ、道の端へ、空と海のあいだへ、つながっていきました。
線は、世界の至るところにありました。 強く主張せず、ただ、そこにありました。
18

その人は、一人で立ちました。
一人でした。 でも、切れてはいませんでした。
孤独は、消えませんでした。 でも、孤独は、その人を壊しませんでした。
線があることで、その人は一人のまま、つながっていられました。
19

切らなくていい。 でも、溶けなくていい。 ただ、線があればいい。
線のあるところに、愛がありました。 線のあるところに、その人がいました。
そして、そこに、その人が立っていました。
木下 賢一